想い

Otasuké Paris
代表 北澤 知也
Tomoya KITAZAWA

ごあいさつ

 Bonjour. こんにちは。こちらのページをご覧いただきまして、ありがとうございます。Otasuké Parisを運営しております、北澤知也と申します。
また、既に当サービスをご利用、応援してくださっているみなさん、いつもありがとうございます。どうぞ今後ともOtasuké Parisをよろしくお願いいたします。

 なぜOtasuké Parisが必要なのか、まずは僕自身の生い立ちを説明せねばなりません。
多くを省略はするものの、少し長くはなります。 動画も撮影しており、ページ下部にございます。 どうぞお付き合いいただければ幸いでございます。

暗闇のひきこもり時代

 僕は、過去に合計して4年間のひきこもり経験があります。中学2年生の夏から2年、その後なんとか家から出たものの、1回目の高校を1年生の冬で中退し、またそこから2年間をひきこもって生活していました。家庭環境はぐちゃぐちゃで、途中からは母子家庭になり、それが原因と、今では言いませんが、当時の心は酷く荒れ、一寸先は闇という言葉そのままに生きながらえていました。3回死のうとしたこともありましたが、死ねずじまいでした。家の玄関のドアノブさえ触れることができず、触れようとすれば体が震え、恐怖でいっぱいでした。一歩も外へは出られませんでした。とっても苦しかったです。

 そんな中、小学校1年のときからずっと一緒だった親友が、中高のひきこもり時代、何度何度も僕の家に来て外へ連れ出そうとしてくれました。普段はドアノブすら触れられないのに、彼が遊びに来てくれると、彼の背に隠れるようにして、僕は外に出ることができました。一緒ならば、何とか大丈夫だったのです。彼のおかげで、僕は何とか外へ出ることができるようになり、3年遅れで全日制の高校へ、2度目の入学を果たしました。
 彼は建築デザインを学ぶために大学へ進学し、僕にいつも夢を語っていました。
ですが彼は、成人式を終えた20歳のとき、車と車の正面衝突、交通事故で即死してしまいました。

 僕はその後、3年遅れで大学へ進学し、第二ヶ国語であるフランス語の講義を取ることになります。そこで出会った非常勤の講師の方が、とてつもなく楽しそうにパリを語るものだから、僕は彼の話を聞き、更に仲良くなって一緒にご飯に行き、パリのことを聞き続けていると、いつしか頭の中はパリでいっぱいになっていました。そして大学卒業とともに、僕はパリへ留学することになります。

留学直前に体が壊れる

 留学を決めたものの、母子家庭ですから当然お金もなく、留学費を何とかするために必死で働きましたが、体調を崩してしまい、結局はその治療費でお金を使い果たしてしまいました。

 当時は少しでも語学を学んでから行こうと、日本にある語学学校にも通い、大学はフルで単位を取得し、インターンシップもやりながら、アルバイトも夜勤でやっておりましたので、寝る時間と言えば電車で移動する1時間程度の中でこっくりこっくりするだけで、あとはずっと活動していました。
夜勤中に一瞬意識を失ったと思ったら気付いた時は地面に膝から落ちて激痛で目が覚めるという始末で、そんな生活をずっと続けていると、ある朝、鏡の前で髪の毛がごそっと抜けているのに気付き、本当に外に出るのが嫌になった時期でした。 当然ですよね。この時に、体が資本と言う言葉の意味をそのまま体験することになります。

パリ留学時代

 何とか何とか留学することができましたが、その生活も大変なものでした。自分では資金を貯め切れなかったので、日本政策金融公庫から借りての渡仏となりましたが、パリでもひたすらアルバイトをするような生活でした。そんな中で語学学校へも通い続けましたが、途中からだんだんと嫌になって来てしまいます。体の疲れがあったのはもちろん、人が多く集まる空間がそもそも苦手なこともあり、気持ちが滅入ってくると休みがちになってしまい、パリでも一時期はひきこもりのような状態になってしまいました。

 そんな中、その語学学校で知り合った、イエメン出身の友人が、何度もメッセージをくれ、大丈夫か、自分にできることがあればなんでもするから、といって、学校の課題などもいつも写真にとって送ってくれました。
たまに学校に行くと、いつも誘い出して、何も否定もせず、ただただお喋りしながらランチを一緒にしてくれました。あまり食べられないんだ、と彼がご飯を食べないような日もありましたが、彼は僕が食べているのを横で見てくれていました。
僕の母親がパリに遊びに来たときは、彼の自宅に招いてイエメンの手料理をごちそうしてくれました。あるときは、レンタカーを借りるからと、モンサンミッシェルまで彼の運転で片道5時間もかけて連れて行ってくれました。
でも、ガンで死にました。

 当時はほとんど語学力がなかったので、パリで付き合っていた時は彼の実情を理解できず、何となく病気があるらしい、ということしか知りませんでした。死を知ったのは帰国後。当時、闘病生活を送っていたのに、自分の方が助けてほしいはずなのに、僕はいつも助けられていただけでした。

 実は、日本の友人が亡くなったときも、イエメンの友人が亡くなったときも、泣きじゃくりながら毎回感じていたのは、彼らではなく、僕が死ねばよかったのに、ということです。だって、僕には何もなかったので。

 ですが、今は、なぜその友人たちが、そこまでして僕を助けようとしてくれたのか、わかるような気がしています。
確かに、彼らに与えてもらったもののほうが遥かに大きいですが、彼らにとって僕が影響を与え、彼らの存在を感覚して諦めない、という行為が、僕が彼らに接する中に、確かにあったように感じています。生物としての、存在するという安心感が、僕を通じてあったように。

 もし、その日本の友人や、そのイエメンの友人が、成し遂げたかったであろうことを代わりにやるようなこと、彼らの周りの人やその周りの人たちが幸せになれるようなことであれば、それに向かうエネルギーは絶えないと感じています。ですがある日、彼らは、きっと肩代わりをするようなことは決して望んでいないと悟りました。ここに辿り着くまで、悩んだ時期は長かったです。彼らは、僕が全く何もできないときですら、そのままでもいいと言っていてくれていたからです。
彼らは僕が幸せであることを心から願っていたし、その幸せの先で何かすることを応援していました。

Otasuké Paris

 日本の友人が繋いでくれたパリ、イエメンの友人が繋げてくれたパリ。僕はとても多くをパリに助けられました。
だからこそ、Otasuké Parisは、パリに来る人を助けるサービスであり、パリを想う人がパリを助けるサービスでありたいと強く願っています。
パリを、フランスを好きと想う人々が、誰かを利用したり、出し抜こうなどとせず、共に同じ方向を向いて、協力し合って盛り上げていきたいと、願っています。

 だからこそ、儲け主義で搾取するようなビジネスモデルは避け、ですがサービスが今後もまっとうな形で動き続ける最低限を応援としていただき、そして活躍してくれる Otasukéメンバーがしっかりと理不尽なく利益を得ることができ、 Otasukéパートナーがしっかりとこのサービス内で活動することができ、更にそれをご利用してくださった方が、しっかりと楽しいサービス、必要なサービスを受けられるよう、優しいチームであり続けようと強く想っています。

 僕ができる精一杯をやり続け、これからフランスにおいて一歩を踏み出す人のため、挑戦していく人のため、次に繋がっていく人のために、少しでも多くを残せるよう、僕を救ってくれた彼らに感謝をしながら、活動してまいります。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。Merci.

Otasuké Paris
代表 北澤 知也
Tomoya KITAZAWA

「想い」の動画

フルバージョン(34分)

要約版(9分30秒)